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第二次世界大戦における長岡襲撃

長岡襲撃とは1945年8月1日の日本時間午後22時35分から翌日の午前0時10分の間に、アメリカ軍によって行われた空襲のことです。新潟県長岡市の中心市街地を標的として大量の焼夷弾が投下されたため、市街地のおよそ8割が消失し当時の市長だった鶴田義隆氏を含む1488人の市民が犠牲になりました。罹災戸数は11986戸にも及んでおり市内の平潟公園には長岡市戦災殉難者慰霊塔が、昌福寺には戦災殉難者之墓が建立されています。長岡駅の駅前には市と市民ボランティアによって運営されている長岡戦災資料館があり、悲惨な戦争の歴史を学ぶことができます。 1945年7月における市の人口は74508人でしたが、テニアン島を飛び立ったアメリカ軍のB29爆撃機125機による大規模な爆撃によって1488人が犠牲になりました。

この爆撃によって125機のB29から投下された爆弾の量は924.3トンで、各種焼夷弾の数は163456発という膨大な数に上りました。当時のアメリカ軍テニアン島第313航空団が長岡市爆撃を行う経緯としては、まず1945年8月1日15時3分から17時40分にかけてB29部隊がテニアン島を飛び立ちました。18時18分から20時58分にかけて硫黄島上空を通過し21時16分から22時37分にかけて日本本土に到達しますが、部隊は日本海側にある長岡市を目指します。B29の大部隊が長岡市に到着して爆撃を開始するのは22時35分か23時58分にかけてで、爆撃を終えた部隊は23時6分から翌日の午前0時28分にかけて日本本土を離脱しました。125機のB29はその後も継続して飛び続け、1945年8月2日の午前5時33分から7時42分にかけてテニアン島に帰島しています。アメリカ軍のB29は圧倒的な火力に加えてく優れた航続力もあり、制空権を失っていた日本軍にはほとんどなす術がありませんでした。

日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が終わるのは新潟県の長岡市が爆撃を受けた14日後の8月15日なので、政府の決断がもう少し早ければ多くの犠牲を出さずに済んだことになります。この爆撃において投下されたアメリカ軍の焼夷弾はE46集束焼夷弾が4244発とM47焼夷爆弾が2172発、M47-WP黄燐焼夷弾が12発です。E46集束焼夷弾にはM69子弾38発が束ねられていて爆撃で使用されたM69子弾は161272発に上り、火のついたゼリー状の油脂ガソリンを撒き散らしてあたりを火の海にしました。アメリカ軍による壮絶な爆撃の被害について知りたい場合には、長岡駅前にある長岡戦災資料館を訪れるとよいでしょう。

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