米百俵は長岡発祥の教育にまつわる故事で、辛抱が将来の利益となる象徴の物語です。長岡藩は北越戦争で敗れ収入の6割を失ったため、藩の財政は窮乏します。藩士は毎日の食事にも困り、その窮状を見かねた支藩の三根山藩が米百俵を贈ると決めます。長岡藩の藩士たちは生活が楽になると喜びますが、大参事は送られた米を藩士に分けずに売却して学校を設立します。藩士は反発して大参事のもとに集まり抗議しますが、大参事の小林虎三郎は百俵の米も食べればなくなるが教育にあてれば百万俵になると説得して押し切ります。米の売却金で建てられた学校には、医学局と洋楽局が設置されます。
士族が建てた学校ですが、一定の学力を持つ庶民も入学しています。それまでの藩校は主に漢学を中心に教えていましたが、長岡藩が新しく設立した学校では漢学以外に物理や医学など新しい学問も教えるようになります。大参事の小林虎三郎は、若くして藩校の助教を務められるほど深い知識を持った人物です。藩命により嘉永3年に江戸に遊学し、佐久間象山の門に入ります。儒学や蘭学、物理を熱心に学んだ小林虎三郎は長州の吉田松陰と並んで二虎と称されます。教養を広めて人材を育てるのが小林虎三郎の教育論で、米百俵をもとに建てられた学校は日本だけでなく世界で通用する人間を育成する学校になります。
長岡藩は明治3年10月になくなりますが、長岡には数多くの優れた学校が誕生し多くの著名人を輩出します。卒業生には明治憲法の起草に尽力した法務大臣や人類学者、司法大臣が含まれます。明治の代表的な洋画家の小山正太郎や詩人の堀口大学、連合艦隊司令長官の山本五十六も卒業生です。昭和20年8月1日の空襲で、長岡は焼け野原になります。長岡の人々は自立心と不屈の精神で復興に取り組み、全国トップの速さで復興都市となります。
このときの人々の行動力の根底には、長岡藩の時代から受け継がれてきた米百俵の精神が流れています。小林虎三郎の精神は、山本有三の戯曲により広く知られるようになります。戯曲は昭和18年に新潮社から出版され大ベストセラーになります。昭和50年に長岡市が復刻出版すると大きな反響を呼び、2度にわたり歌舞伎座で上演されます。小林虎三郎は終生病に苛まれ明治10年に湯治先の伊香保で熱病にかかり、50歳の若さで死去します。米百俵の精神は国会の所信表明演説でも引用され、2001年の流行語大賞にも選ばれています。