山本五十六は1884年4月4日に生まれ、1943年4月18日に59年の生涯を終えた日本の海軍軍人です。新潟県長岡市の出身で、第26・第27代連合艦隊司令長官を務めた実績を持ち、地元では長岡の誇りとして今でも讃えられています。山本の五十六の名前は父親が56歳のときに生まれたことが由来で、身長は1メートル60センチ、体重は65キロとやや小太りの小柄な体格だったようです。子どものころから負けず嫌いで、小学校時代に「山本は何でも食べるが鉛筆は食べられないだろう」と旧友からからかわれると、その場で自分の鉛筆を食べだしたという逸話が残っています。
1901年に長岡中学を卒業後は200名中2番の成績で海軍兵学校に入学し、1911年に兵学校を卒業後は海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、主に兵器学講座を受け持ち多くの生徒を指導しました。その後、海軍大学校に入学し1916年に大学校を卒業すると海軍の教育本部で勤務することとなりますが、1919年にはアメリカ駐在を命ぜられハーバード大学に留学します。また、この機会を利用して欧米諸国を巡り、ワシントン軍縮条約後の各国の実態をつぶさに観察しました。1924年には霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長に就任、その後海軍航空本部長まで歴任し、今後の日本における国防の主力は航空機になるとの確信から、退任まで一貫して航空戦力の充実と拡大に尽力します。1939年に連合艦隊司令長官に就任すると、そのわずか2年後にはアメリカとの決戦に備え、「ニイタカヤマノボレ」や「トラ・トラ・トラ」で有名なハワイ真珠湾攻撃を敢行し、未曽有の大戦の指揮を採ります。
空爆での奇襲を主体としたこの作戦は非常に斬新でしたが、前例のない作戦であったため危険視する者も多く、従来通りの艦隊を主体とした作戦の方が良いのではという意見もありましたが、五十六は「採用されなければ連合艦隊司令長官を辞職する」と宣言し、この作戦を認めさせました。しかし、この作戦は成功しましたが、続くミッドウェー海戦では大敗を喫することとなり日本に重大なダメージを与えてしまいます。それでも日本を救う道を探し続けますが、戦う兵士を激励するため前線へ飛行機で移動中に、アメリカ軍によって撃墜され命を落としました。
その最期は座席に座ったまま左手で軍刀を握り右手はそこに添えて、まるで「生けるがごとく」であったと言われています。五十六の死は国民に大きなダメージを与えてしまうため軍の極秘扱いにするなど、日本のために戦い国民に慕わたのが長岡の誇り山本五十六の人物像です。