新潟県の中南部に位置する長岡市といえば、日本三大花火大会の1つに数えられる花火大会がおこなわれることで全国的に知られている市です。この地はかつて長岡藩が置かれていましたが、2018年には開府から400周年という節目を迎えたことを記念してさまざまな記念事業がおこなわれてもいました。ここではそのような長岡の歴史についてご紹介します。
この地域にはかなり古くから人が住み始めたと考えられています。というのも縄文式土器の一種である火炎土器が初めて出土したのは市内にある馬高遺跡だからです。市内で見つかったこの土器は重要文化財の指定も受けています。しかしこれよりもさらに古い旧石器時代の石器も、市内の遺跡では見つかっているので2万年前から1万年前の間にはすでに人がこの辺りに住んでいたようです。弥生時代には尾立遺跡が営まれていたほか横山遺跡のあたりにも人が住んでいました。
江戸時代の初めごろは、現在の市域にあたる地域は外様大名の蔵王堂藩があり蔵王堂城に藩庁があったといいます。しかしその後断絶して、越後国にあった高田藩の領地となっていました。さらに1616年に外様大名の堀直寄が長岡城を築きましたが、堀直寄に代わって牧野忠成が入封することになります。こうして初代藩主が誕生したのは1618年のことで、この1618年が一般的に開府の年と考えられています。初代の牧野忠成の時代から落城するころまでの、開府されてから幕末までのあいだは、譜代大名の牧野家がこの藩を治めていました。藩の精神は明治維新以降もこのあたりの人々の心に受け継がれて、市民性になっていたといいます。
その1つが「常在戦場」という考え方です。というのもこの辺りでは武士だけでなく農民や商人などから、子ども・女性にもこの精神を浸透させていたといいます。普段から質素・倹約をよしとし、心身の鍛錬や教養を付けることなどを重視させていたのだそうです。戊辰戦争や空襲の際には、市の中心部は壊滅しましたが、復興を遂げて現在のような市に発展しました。そのようなことから不死鳥が市章のデザインに使われています。明治に入ってからは、かつての藩主だった牧野忠毅が知事になりました。しかし1870年には藩はなくなり、かつてのエリアは柏崎県の一部となりました。市が誕生したのは1906年のことで、それまでは古志郡長岡町というエリアでした。その後も幾つもの村や町が編入され現在のような市域になっています。