新潟県長岡市は、越後地域の中でも非常に歴史がある街です。その歴史は平安時代にまで遡り、江戸時代に至っては「天下の穀倉地帯」と呼ばれたほどです。そして第二次世界大戦の戦時中は、ノーベル賞を受賞した物理学者を生み出した場所でもあります。
長岡市は、2021年に街が形成されて400周年を迎える記念式典を控えており、これに際して街が生み出した偉人たちを紹介されています。その中でも栄誉あるノーベル賞を受賞した「長岡半太郎」について、彼が残した功績を詳しく紹介していきましょう。長岡半太郎は、1899年に市の東部にある筑紫村で誕生しました。14人兄弟の末っ子で、一番上の兄とは24歳も年齢が離れていたほどです。米農家に生まれたため、幼少期から不自由のない暮らしを送り、当時としては珍しく高等学校まで進学しました。
その後1度は実家の農業を手伝いましたが、18歳の時に東京帝国大学に進学をして、物理学を学びます。この進学のきっかけは、半太郎がなぜ水は粘り気のある形態をとっているのか、という疑問を抱いたからです。大学生時代は元素研究に打ち込み、22歳になった時はドイツへと留学をします。当時のドイツは世界でもっとも優れた原子研究をおこなっていた国で、その地で半太郎は10年間学ぶことになりました。
帰国後は大阪帝国大学を設立して、初代総長を務めます。世界のあらゆるものが、元素と原子で構成されていることを論文で発表し、世界各国の研究者たちの間で高い称賛を得ることになりました。1930年になると、第二次世界大戦が開幕し、日本はアメリカ・イギリスといった大国と敵対することになります。長岡半太郎は戦時中も学業を優先していましたが、彼が当時暮らしていた大阪は連日の空襲を受けて、焼け野原となります。
生まれ育った長岡市へと疎開をした1938年、スウェーデンのストックホルムで開催されたノーベル賞選考委員会にて、長岡半太郎が生涯を通して研究をした、「土星型原子モデル」の物理学賞受賞が決定します。戦時中であったため、日本国内では彼を讃える声は非常に限られていましたが、戦後は日本人初の物理学賞を得た学者として功績が讃えられ、現在に至ります。長岡市には1986年に市の中心部に長岡健太郎の胸像を設置し、さらに栄誉あるノーベル賞のメダルも市役所内に常設しています。戦時中でも懸命に研究を続けた長岡半太郎は、街を代表する偉人になっている方です。